唐木順三の芭蕉の「言葉を正す」
唐木順三の『日本人の心の歴史』の中の「芭蕉の発明」を読んだ。面白く納得することが多かった。芭蕉については、安東次男と西脇順三郎の評論が秀逸だと思っているが、唐木から新しい発見があった。それは「言葉を正す」というテーマで、私がここ数年前からこだわっていて、主張し研究しているものである。ここでは、唐木の文を引いて、芭蕉が主張している言葉を正すことの内容をみてみたい。そして、そのことが芭蕉とどんな関係があるかを考えてみたい。
芭蕉が芭蕉になったのは、一般にいわれているように『野ざらし紀行』からであった。「千里に旅立ちて路粮をつつまず、三更月下無何入といひけむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、扛上の破億屋をいづる程、風の声そぞろさむげなり。 野ざらしを心に風のしむ身かな」 随分気負った文体である。冒頭句は『荘子』や『江湖風月集』を援用し、若い頃の名残をとどめながら、すみなれた深川の芭蕉庵を捨てて、野ざらしを覚悟に旅に出る。「風の声」「心に風の」という風が出て来ていることは注意してよい。さきに書いた風に破れやすき芭蕉の葉、風来坊の姿の初めである。文中の「僧に似て塵あり、俗に似て髪なし」の姿である。荘子や寒山や李杜の法粥をなめて言葉を養った松尾桃青が、その名残を負いながら、一方ではそれをうるさしとして、野ざらしを覚悟の半僧姿で旅に出て、風の自在に身を任せようとする。貞享甲子は貞享元年(1684)、芭蕉は四十一歳。芭蕉にとっても、日本の文学史にとっても、また記憶すべき秋であった。この紀行中の句「道のべの木槿は馬にくはれけり」には「眼前」と前置きされている。眼前嘱目の句で、同じく文中の句「やま路来てなにやらゆかしすみれ草」とともに、正風或いは芭蕉の開眼の句として古来評判されている。この紀行文に収められている若干の句を写す。
あけぼのやしら魚白き事一寸
狂句凩の身は竹斎に似たるかな
馬をさへながむる雪の旦かな
海くれて鴨の声ほのかに白し
春なれや名もなき山の朝霞
水取や氷の僧の沓の音
辛崎の松は花よりおぼろげに
土芳のいうような「誠の俳諧」と、これはいささか色合いが違う。リアリズムに対して言えばロマン的とでもいおうか。とにかく自由である。心、言葉を含めて自由で、そのひろがりが立体的である。殊に「海くれて鴨の声ほのかに白し」また「氷の僧の沓の音」などに、芭蕉の思わぬ発明があったのではないか。声がほのかに白いという。奈良二月堂のお水取りの儀式に従う者を「氷の僧」でとらえ、その木沓の堅いひびきを出してくる。前人未踏の点景であり、言葉遣いである。従来の句合や点を争う俳句とは全く違う心と言葉の動きである。
このいささかロマン風の心の動きは、半僧半俗の詩人の初旅、「年くれぬ笠きてわらぢはきながら」「死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ」にみずから興じているところに由来するものであろう。従来の狂言綺語のあやつりを嫌っては「木槿は馬に」と吟じ、」「山路来てなにやらゆかし」と、「なにやら」などといううぶな言葉を平気で使っている。こういう自由な境を経歴して、次第に晩年の「松の事は松に習へ」の存在のリアリズム(実相)に入っていったのであろう。いま、存在のリアリズムを如実に示している句を示そう。
草臥て宿かる比や藤の花
この句(元禄元年)には、「大和行脚のときに、たはむ市(丹波市のこと)とかいふ処にて日の暮れかかりけるを、藤の覚束なく咲きこぼれたるを」というまえがきがついている(『泊船集』)。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
さみだれを集て早し最上川
荒海や佐渡によこたふ天河
清滝や波にちり込青松葉
此秋は何で年よる雲に鳥
白菊の目に立て見る鹿もなし
秋深き隣は何をする人ぞ
再び『三冊子』にかえって、芭蕉の境地、詩論を探ることにする。「高く心を悟りて俗に帰るべしとの(師芭蕉の)教也。常に風雅の誠を責め悟りて、今なす処の俳諧にかえるべしと云える也。常、風雅にゐるものは、おもふ心の色、物と成りて、句姿定まるものなれば、取物自然にして仔細なし。心の色うるわしからざれば、外に言葉を工む。是則ち常に誠を勤めざる心の俗也。」
ここは既に引いた『笈の小文』の風雅論を思いださせる。そこでは「風雅におけるもの,造化にしたがひて、四時を友とす」「造化にしたがひ造化にかへれとなり」といわれていた。風雅の根底は存在的に造化に在る。四時の運行の内にある。造化は即時的に風雅である。風雅自体である。或いはここでいえば「風雅の誠」である。中庸の「誠は天の道なり」に通じる。中庸はやがて「これを誠にするは人の道なり」という。即時的に誠である天の道を、自覚的な誠にすることが人の道、聖人の道だという。誠を誠にする事が聖人であろう。ここの「風雅の誠を責め悟る」も、即時的な風雅に参じて、それを自覚的にすることであろう。それが「高く心を悟る」ことの具体的な意味である。その上で「俗に帰れ」「俳諧にかへれ」という。即時的に風雅である造化とともにいて、そこから出てゆけという。そうすれば造化の風雅が自ずからおのが心にうつって、句姿定まるという。句はおのずから成るという。心の色、物と成るというのは、心の色合いがおのずから造化によって薫染されるというのである。心が物に成るといってもよい。任運自在、任運騰騰もそこから起る。「物我不二」の境である。芭蕉は、「習へというは、物に入って、その微の顕れて情感ずるや、句と成る所也」とおしえ、また、「ものあらはにいひ出でても、そのものより自然に出づる情にあらざれば、物我二つになりて、其の情、誠に不至。私意のなす作為也」といましめている。
同じく『三冊子』の中で、芭蕉は「俳諧は平話を用ゆ」といっている。また、「俳諧の益は俗語を正す也。つねにものをおろそかにすべからず。此事は人の知らぬ所也。大切の所也」といっている。また俗語平話を使いながら、それを正すのが俳諧だと人に語っている。その「俗語を正す」とはどういうことであろうか。普通の人、また一般の俳諧師は、俗語を俗語として使っている。その上で利口、秀句を工夫していることは『犬筑波集』以下、宗鑑、宗因、また其角の風をみればわかることである。芭蕉は俗語を「もの」また「こと」とのかかわりあいで使っている。「つねにものをおろそかにすべからず」、それが大切だといっている。虱という文字言葉を虱の実物とのかかわりあいで使えというのである。こんにゃく、鳥、たにし、栗のいが、すべてその実物のあるべきようを思い、あるべきようにそれらの言葉を働かせよというのである。宗因のように藤の花を見て「蛸、木にのぼる気色あり」とよめば、滑稽な綺語にはなるが、それは実物をいいかげんにしての観念の遊戯である。藤の花の文字言葉によって、反って藤の花の実態、実相に気づかせるような、そういう句を成すには、まず実物の藤の花に参ぜよ。もじっていえば「藤の花のことは藤の花に習へ」である。そこから「草臥れて宿かる比や」の句が生まれ来る。俗語平話を「正す」ということは右のようなことであろう。松という名はまつというものの存在を、竹という名はたけというものの存在を表示しているとすれば。その松、竹という名辞を使って。松、竹という存在へ導くようにするのが、詩人というものの行為であろう。名は物に由来するとすれば、名を物に返せ、その名の初めて起こった源に返せ、名辞初発の時に返せ。詩人の志と業はそういうところにある。或いは名を示すことによって物を与え、名を呼ぶことによって実物をよびよせる、それが詩業のおけるポイエシスというものであろう。
「松の事は松に習へ、竹のことは竹に習へ」と師の言葉にあったのも、私意を離れよということである。この「習へ」ということを、自分の勝手に受け取って、終に習うということをしないのである。「習う」というのは、ものに触れてその微妙な生命が顕れて、心に感じられることであり、それがただちに句となるのである。たとえば、ものを句の表面にあらわに言い出しても、そのものから自然に生まれた感動でなかったら、ものと我と二つに分離して、その感動は誠に到達することができない。すなわち、私意によるこしらえ物になってしまう。ただ、師の心を、ただひたすら随順する心で探り求めれば、師の心の色香が感染して、自分の匂いとなってくる。深く熟慮を加えなければ、探っているうちにも私意が出てくる。詮議し穿撃して風雅の誠を責める者は、たとえ一時のことにもせよ、私意から離れることができる。これを一番大事のこととして、名づけて地ごしらえと言う。これを、風雅を友とする者の中心の題目としている。(三冊子の現代訳)
ここまでが唐木順三の主張である。彼は西田幾多郎の弟子であった。この文をはじめ多くの興味深い説を唱えている。芭蕉が、俗語平話を用い、かつそれの「言葉を正す」ということを言明していたとは知らなかった。『三冊子』と唐木の説明を読む限りでは、芭蕉の「言葉を正す」の真意は、「松の事は松にならへ」にあると思われる。この主張は。ベルグソンが『形而上学入門』で唱えているものの認識の方法と同じである。ベルグソンンは、ものをみる視点を傍観者の座標系から離れ、そのものに近づきそのものの座標系に入りそのものへ感情移入し、最後はそのもの自体に成りきることだとしている。まさに、芭蕉が唱えている説と同じであることに改めて驚く。「言葉を正す」とは、言葉をそれがあらわすもの自体にその言葉を反すことだとも言っているようである。日本を変えるためには、「言葉を正す」ことが必要だと三島由紀夫は主張して自殺した。三島が意図した「言葉を正す」とは、芭蕉やベルグソンが唱えている「松の事は松に習へ」をも対象としていたのであろうか。
令和六年正月
鎌倉にて記す
熊谷章
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