金沢諏訪堂の会
後三年の役、清原一族プロジェクト
2012年の12月11日は後三年の合戦の金沢の柵落城から925年目にあたった。つまり、この地域の首長であった清原一族の925年忌になる。史実を調べてみても、清原家衡とその一族の霊を弔った記録を見付けることができない。当然、墳墓も見付からない。一方、煌びやかな栄華と仏教国をめざした藤原三代の平泉は世界遺産に登録された。藤原清衡は還暦を過ぎた1126年に中尊寺を建立した。こちらは開廟888年目になる。金色堂、紺紙金銀字交書一切経、中尊寺落慶供養願文などがあり平泉が世界遺産になった。
奥羽山脈を隔てた両地域の格差はそれらの冬の天候に似ている。惨たらしい肉親間の殺戮を経験した清衡は合戦から37年経て仏教に帰依し全権能を寺院建立と紺紙金銀字交書一切経の作成に費やした。供養願文には、その当時の状況が書かれている。陸奥と出羽の人々、蝦夷、俘囚、南蛮の粛慎、挹婁の人々が穏やかに暮らし懐いているとある。粛慎、挹婁は、中国の東北部に棲息した少数民族である。出羽や陸奥が中国と交通していたことを示していて興味深い。前九年と後三年のような合戦が起きた地域が急に穏やかで平和な郷に変わるはずがない。何かが起きて変わったはずである。それを探求し知ることが郷土の歴史を知り私たちの未来を企画することに繋がるはずである。
もともと出羽の住民には、南蛮を含めた多くの種類の人間がいて、共存共栄の集落をなしていたのではなかろうか。朝廷から遠隔地にあったため治外法権的な存在で豊かで明るい集落であっただろう。食物、金銀の鉱物、動物の毛皮や羽毛が豊かに産出される地域だったことがその証である。交易に利益があったから中国との交通が行われていたに違いない。物流の交通は人の交通を必ず伴う。従って、出羽の人々には南蛮のDNAも連綿と息づいていると考えるべきである。風土と習慣と人種によってその地域の文化が形成される。では、後三年の合戦以降の出羽の文化形成はどのようにして形成され継承されてきたのだろうか。清衡による清原一族の殲滅と藤原三代の統治になってから何がどのように変化したのだろうか。
清衡は京都文化の影響を受けて仏教に帰依したとある。それは本当だろう。では、京都とは直接交通路を持たない出羽の住民はどのような文化を形成して生きていたのだろうか。そんな中、八幡神社や寺社を朝廷からの命で建立した。民衆は仁義礼智を忘れて八幡神社を祀り朝廷の政治に従順に従ったのだろうか。塩谷順耳氏によれば民衆は賢いので租税を軽くするために田を義家らの管轄領として登録したのではないか、と唱えている。そして、その制度の方が清原一族が、首長であった時よりも暮らしやすかったのではないかと推測している。つまり、清原一族は首長であったが、民衆にとってはあまりよい結果を齎すものではなかったかもしれないという。こう考えれば、この地域に清原の姓名を名乗る者が一切存在しないことや清原の墳墓や塚がないことも納得できる。
よくある勝者の論理で歴史を塗り変えたと考えてみても跡形なく一切が消えているということは余程の理由がない限り現実には起きないだろう。最も有名な源平の戦いでも敗れた平家の墳墓は沢山あり、全国に平家の落人の集落が多くみられる。しかし、出羽地方では清原一族の記録や遺跡は一切見当たらない。この事実から、逆になぜそうなったかという原因を推論することができる。
推論は記号と知識を持つに至った人類の最大の叡智である。これにより未来を計画し現在を制御できるようになった。推論には、帰納法と演繹法があると知られているが、チャールズ・パースが提唱したアブダクションという第三の方法がある。次の内容である。
1.驚くべき事実Cが観測された
2.しかし、Aが正しいとすれば、Cは当然のことである
3.ということで、Aが正しいと思う理由がある
ここで、驚くべき事実Cとして、清原一族の跡形が合戦以降歴史から消えたこと、清原を名乗る人がいないこと、清原の墳墓や塚がないこと、合戦後清衡が姓を清原から藤原に変えたこと、などがある。ここで、私たちの智能と推論能力が試されている。つまり、私たちはいま手にしているこの事実Cから、智能をフル活用して理由Aを創り出さなければならない。そして、Aが正しいということを諒解する必要がある。このことにより、今まで925年間放置して来た清原一族の霊が供養され成仏できると考えている。
もう一つ、気にかけていることがある。それは、私たちの仏教思想である。平泉文化は浄土思想という形容でまとめられ語り継がれているようである。その詳細を佐々木邦世氏が講演でお話ししてくれるでしょう。死んだら浄土へ行けるというだけではなく、現在も未来も浄土にしようという願いがあるという。仏教の祖ゴータマ・ブッタ(釈尊)は、すべての煩悩を消すことが重要だと説いている。それはそれで納得できるのだが、、、。一方、日本は民主主義の自由資本主義社会であり利益追求が目的である。富をなすことが社会的な善であるかのようになっている。思想の仏教と毎日の経済活動とは表面的には相容れない。更に、民衆の仏教離れが激しくいまや仏教やお寺は葬式のときだけ登場するようになってしまった。これらの相矛盾した状況をどのようにして超越して、将来の地域社会の姿を描けばよいのだろうか。この一見重すぎるテーマを今回の行事を契機にみんなで共有し考えてみたい。
解決の糸口は仏教を進展させた龍樹と鳩摩羅什の生き方と思想にあるように思う。彼らは若い頃に煩悩に従った自由奔放な生活をしたらしい。その後、一念発起して偉大な仏教思想を打ち立てた。現在の矛盾した状況を彼らの自由奔放な生活に相当すると考えられないだろうか。そして、その中から仏教思想の新しい道を産み出すことができないだろうか。それが私たちに課せられた責務だと考えている。